応援団の掟【剛毛ブラシ】



夕陽が空を赤く染め上げていた。汗と埃、そして男たちの熱気が入り混じったむせ返るような空気の中で、俺は、ただ一点を見つめて立ち尽くしていた。
目の前に立つのは、応援団副団長、鬼頭さんの、岩のように強張った背中だった。
「声が小さい」
地を這うような低い声が、空気を震わせる。それは、この数週間、俺が呪いのように浴びせられ続けてきた言葉だった。●●時代、帰宅部だった俺にとって、腹から声を張り上げるという行為は、未知の領域だった。変わりたい。線の細い自分を、この大学で変えてみせると誓って門を叩いた応援団。しかし、現実は厳しい。
「一年、神崎!そんな蚊の鳴くような声で、誰の心を動かせる。スタンドにいる選手に、お前の気持ちが届くのか!」
鬼頭さんがゆっくりと振り返る。その眼光は剃刀のように鋭く、射竦められた俺は喉をひくつかせることしかできない。周囲を固める二、三年生の先輩たちの視線が、無言の圧力となって俺の全身に突き刺さる。嘲笑う者、つまらなそうに爪をいじる者、そして鬼頭さんと同じく、厳しい目で見つめる者。誰も助けてはくれない。ここはそういう世界だ。
「度胸が足りんのだ、お前には。恥をかくことを恐れている」
鬼頭さんは、グラウンドの中央を顎でしゃくった。
「ここで、脱げ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。しかし、鬼頭さんの目は冗談を言っているようには見えない。
「学ランを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、シャツを脱げ。パンツも脱ぎ捨て、全裸になって、第一応援歌『蒼穹の覇者』を歌え。俺が満足する声が出るまで、お前はそこから一歩も動くことは許さん」
血の気が、すっと引いていくのが分かった。頭が真っ白になり、耳鳴りがする。屈辱と恐怖が、胃の腑からせり上がってくる。女子応援団員もいるこの場所で、そんな真似ができるはずがない。それは「しごき」という言葉で片付けられる範疇を、あまりにも逸脱している。
「聞こえなかったのか、神崎」
鬼頭さんの声が、さらに一度低くなった。俺は唇を噛みしめる。ここで「できません」と言えば、どうなる?おそらく、団を去ることになるだろう。それは、逃げ出すことと同じだ。この四年間、いや、これからの人生、俺はまた「逃げた男」として自分を苛み続けることになる。
変わりたいんだろう、神崎拓也。 憧れたんだろう、あの黒い学ランに。 あの、魂の叫びに。
心の中で、もう一人の自分が叫ぶ。
俺は、覚悟を決めた。震える指で、学ランのボタンに手をかける。一つ、また一つと、自分のプライドを剥ぎ取っていくかのように、ボタンを外していく。周囲の空気が、シンと静まり返った。先輩たちの視線が、より一層強く、俺の一挙手一投足に注がれる。
学ランを脱ぎ、肩から滑り落とす。次いで、ワイシャツのボタン。そして、ベルトのバックルを外す音だけが、やけに大きく耳に響いた。ズボンが地面に落ち、最後にトランクスを脱ぎ捨てる。
夕暮れの冷たい風が、むき出しの尻を撫でた。羞恥心で、顔から火が出そうだった。指の先から足の先まで、ぶるぶると震えが止まらない。
ゆっくりと、宣告された場所へ歩を進める。一歩、また一歩。裸足の裏に感じる土の感触が、やけに冷たかった。
指定された場所で、俺は立ち止まる。鬼頭さんたちのいる方角に背を向け、仁王立ちになった。せめてもの、抵抗だった。
深く、息を吸う。肺が震えるのが分かった。
「……あ、蒼き空に……」
絞り出した声は、自分でも情けないほどか細く、上ずっていた。子猫の鳴き声の方が、まだマシだろう。
「聞こえん!!!」
背後から、雷鳴のような怒声が突き刺さる。
悔しかった。情けなかった。なんでこんな惨めな思いをしなくてはならないのか。涙が滲み、視界が歪む。
だが、その瞬間、腹の底から何かがこみ上げてきた。それは、怒りに似た、熱い塊だった。ここで終わるものか。笑われて、蔑まれて、それで終わりでたまるか。
俺は、一度固く目を閉じた。そして、見開く。
もう一度、息を吸い込む。今度は、腹の底、丹田を意識して。
「―――蒼き空にッ!! 日輪を仰ぎッ!!!」
自分でも驚くほどの声が出た。それはまだ、完成された応援歌には程遠い、ただがむしゃらに張り上げただけの、獣の咆哮のような声だった。喉が張り裂けそうに痛い。
背後の先輩たちが、息を呑む気配がした。
「若人よ、今ッ!!」
まだだ。まだ足りない。もっと、腹の底から。魂を、この声に乗せるんだ。
俺は歌い続けた。生まれたばかりの惨めな姿で、夕陽に向かって、ただひたすらに叫び続けた。それは、過去の弱い自分との決別の儀式であり、未来の自分への、魂の誓いだった。
※本作に登場するシチュエーションは、すべて創作上のフィクションです。実在の人物、団体、場所等とは一切関係ありません。
※犯罪行為その他、違法な行為を肯定・推奨するものではありません。
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